今日の聖句  2025年9月    nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています



9月10日水曜日 
 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、  高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。   ローマの信徒への手紙 8:38-39

  パウロは、私たちを神の愛から引き離すかもしれないと考えられる被造物を、考えられる限り列挙しています。死といのち、御使いや権威ある者、現在のもの未来のもの、力ある者、高さ、深さ、どんな被造物も、引き離すことができません。それは、神の愛が、私たちの主キリスト・イエスのうちにあるからです。パウロは、「イエス・キリストにある者が罪に定められることは決してありません。」という言葉で8章を始めました。そして、「キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と言って終わっています。このように、私たちに与えられた神の救いは完全であり、十分であり、確実なのです。

(祈り)
愛する天の神さま、私たちをキリストが苦しまれたように苦しみの道に導いてくださり感謝します。その道がまた、神の愛によって完全に守られた道であリました。私たちのからだにもたらされる苦しみ、あるいはからだの弱さによって受ける内なる戦いも、御父、御子、聖霊の神が、全面的に介入し、助けてくださり、計画してくださっています。どうか、この神の愛を覚え、その愛の中で私たちを歩ませてください。主の御名によって祈ります。


9月9日火曜日
 「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。
使徒言行録 11:17-18

 ユダヤ人信者も、ペテロの説明を聞いて、異邦人にも神は救いを与えてくださることを知ることができました。異邦人が救われるのか、救われないのか、という問題について、教会に一致がもたらされました。信仰の一致がもたらされたのです。自分たちが信じている事柄について、一致が与えられたのです。組織的な一致でもなく、また、建前だけの一致ではありません。自分が個人的に神との関わりを持っていて、その信仰が他の信者と共有できるような一致です。作り出した一致ではなく、生み出された一致と言ったらよいでしょうか。ユダヤ人信者にも、異邦人が救いを得ることができるという信仰が与えられました。
 そして、その結果、彼らが「神をほめたたえた。」とあるところに注目してください。神に栄光が帰されています。教会が一致していないときは、神の栄光が現れていません。なぜなら、互いに自分が正しいと思っており、神ではなく人間が主役になっているからです。けれども、互いに同じ思いをもっているときに、神の御名がほめたたえられます。

(祈り)
憐れみ深い天の神さま、あなたの憐れみによって、私のようなもの さえ受け入れていただいているのですから、私が他者を 避難したり、 拒んだり、 叱ったりするのではなく、 イエス・キリストの憐れみによる救いの約束を共に分かち合うことによって、私が他者をも受け入れていかれるように助けてください。


9月8日月曜日 
 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
  これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、  柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。      ガラテヤの信徒への手紙 5:19, 21-23 新共同訳

 肉の行ないをしている者は、自分がいくら救われていると主張していても、救われてはいないのです。信仰によって義と認められた人は、同時に御霊によって新たに生まれました。御霊がその人を導くようになるのですから、その人には必ず聖霊の実が結ばれるようになります。しかし、肉の行ないをしているのであれば、本当にその人が救われているのかどうか、疑ってみなければいけません。
 肉の行ないが「行ない」と書かれているのに対して、御霊の実は「実」と書かれているところに注目してください。私たちの行ないは肉に属するものです。しかし、御霊がなしてくださることは、実、すなわち自然に育ってくるものなのです。私たちが、キリストのうちにいこい、キリストにかたく立ち、キリストのうちにとどまっているのであれば、自然と愛が与えられます。私たちが、愛ではなく憎しみ、怒りがあるのであれば、それは私たちの努力が足りないからではなく、私たちが信じられていないからです。御霊に拠り頼むことができていないからです。私たちが、ありのままの自分を主にさしだし、自分には何もできないことを認め、主に座を明け渡すときに、主が私たちに代わって、これらのことを行なってくださいます。

(祈り)
父なる神さま、まことの愛の姿を見せてくださり、ありがとうございます。私が生きていく上で、聖霊に従っていないところを示し、あなたの愛の内に私を完全にしてください。私がわがままであったり、自己中心的であったり、すぐ怒ってしまうところを示し、これらすべてを、あなたにゆだね、こんな性格をあなたのご自身の愛に変えていただけますように。私をつくり変え、あなたが私を愛してくださるように、隣人を愛せるようにしてください。イエス様の御名によって、アーメン

9月7日日曜日
 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。  だから、人の子は安息日の主でもある。」マルコによる福音書 2:27-28

  安息日は私たちが守るために設けられたのではなく、 創造主となる神が私たちを守り、 命を回復させるために設けて くださった 創造主の日です。神さまが、疲れの中にある私たちに命を注いでくださる 。気落ちした者に希望を与えてくださる。 病んだ者を癒してくださる。
 主イエスは、このことを明らかにするために、安息日 に病人を癒やし続けられました。 そして、 安息日を 形式的に守ることを 至上命令とする人々に殺されることになるのです 。 キリスト教会は、主イエスが復活 となさった日曜日を聖日、キリスト者の安息日としてきました。 主イエスが願っておられることは、この日ともに集まって礼拝する者たち、 また事情で集まることはできない者たちが、元気になることです 。希望を回復することです。キリストの命を受けることなのです。

(祈り)
天の父なる神さま、安息日を迎えることができることを感謝します。この日、イエスさまのところにやって来る私たち一人一人に、溢れる命と癒し、また、問題解決が与えられる喜びの日となりますように、主イエス様のお名前によって祈ります。

(今日の聖句)9月6日土曜日
   主こそ万軍の神 その御名は主と唱えられる。 神のもとに立ち帰れ。 愛と正義を保ち 常にあなたの神を待ち望め。
ホセア書 12:6-7 新共同訳

 人は神の助けを求め、 すぐに神が答えてくれることを期待します。 確かに 、神は祈りにすぐに答えてくださることも多いですが、何年も、時には 何十年も 祈り続けなければならないこともあります。 そんな時、 私たちが心に留めなければならないことは、神の回答を待つ間こそ、私たち自身が 神の御心にふさわしいものに作り替えられる時だということです。 神を待ち望む とは 、私たちが自分の思いと行いを離れて神に立ち返ること 、愛と公正を行うことだと聖書は言います。 ただ、解決を求めて祈るだけではない、神の御心を自分の心として行うものとなっていくこと、これが神を待ち望むということなのだと。問題の中に投げ込まれた時こそ、神との深い 霊的な交わりを求める時です 。

(祈り)
天の父なる神さま、新たな一日のはじまりを感謝します。
 今日、私自身が 離れるべき 思いと肉の行いは何か、 あなたがが求めておられる 愛と公正とは何かを わきまえ知ることができるように導いてください。そして、神さま、今日、私が、あなたを待ち望むにふさわしい 心と体となって過ごせるようにお助けください。

9月5日金曜日
  そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 ローマの信徒への手紙 1:24-25

 パウロは、ここで「まかせられ」という言葉を使っています。26節にも、「情欲にまかされました。」28節にも「無価値な思いに渡され」とあります。神が人間に対して怒るとき、それは、彼らをその欲望のままにさせておくことによって現われるというのです。私たちはとかく、神の怒りは、何か悪いことが自分の身に下るとか、思いっきり叱られるときなど、何か罰が与えられることを神の怒りだと考えがちですが、もちろん、死後には、そのような永遠の懲らしめが神の怒りとして現われますが、神が何も干渉せず、そのままにされることも怒りなのです。ほったらかしにされる、これこそもっとも恐ろしいこです。

(祈り)
天地の造り主なる神さま、私たちに自制する思いを備え、誘惑に陥らないように守ってくださることを心強く感謝します。どうか、あなたの霊の力によって、造り主なるあなたのみに仕える歩みを守らせてください。

9月4日木曜日
 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
ローマの信徒への手紙 1:16

 パウロは、福音は救いを得させる神の力なのだと言っています。力なのです。福音は、それを体系的に理解してそれを信条として受け入れる哲学ではありません。そうではなく「力」であって、私たちを罪から救う力なのです。福音は、私たちを罪にともなうさばきから救います。たった一つの罪でも死んだあとに地獄に行ってしまうのに、そのすべての罪を処理されて、天国へと導く力を持っているのです。また、私たちは罪の力から救われます。私たちを悩まし、奴隷状態にしていた罪であっても、福音によってその力から解放されるのです。さらに、罪そのものから救われます。私たちには、罪の性質がこの肉体に宿っていますが、この肉体までが変えられて、新しいからだを持つようになり、キリストに似た者にされるのです。

(祈り)
全能の神さま、 私たちに恵みを与え、喜びを 持って あなたに向かわせてください 。どうか、敬虔な思いと愛をもって、福音がすべての人に伝えられるように、私たちに福音の力を与えてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

9月3日水曜日 
 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
エゼキエル書 36:26-27

 創造者なる神さまは、その民に対して、御霊による新生を行なわれます。まず不信仰の者たちを集め、そしてそこで恵みの御霊を注がれて、彼らを霊的にも救ってくださるのです。
 御霊による新生ついて、三つの点が示されています。一つは、神さまが「あらゆる汚れを清めてくださる。」ということです。
 第二点は、「新しい心」を与えることです。私たちが外側の行ないを変えようとしても決してできないものを、神さまは内側から私たちを変えられることによって、それを成し遂げてくださることです。
 三つ目の点は御霊の新生によって、神さまの御言葉に従順になることができる、ということです。恵みによって、信仰によって救われるのは、自分が好き勝手なことをすることができる自由が与えられることではありません。むしろ、これまで従えなかった神さまの命令を従うことができるようにしてくださったからです。

(祈り)
恵み深い天の神さま、私たちにも新しい心と霊を与えてください。そして、私たちをきよめ、あなたの御心を行うことができるように助け導いてください。

9月2日火曜日 
 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
ローマの信徒への手紙 1:16

パウロは福音を 恥としません と宣言しました。 なぜなら、 福音は信じる 全ての人に救いをもたらす神の力だからです。 神の力は この世の権力と違い 神の怒り とさばきから救い、命と栄光を与えます。

(祈り)
天の父なる神さま、私が、神の力である福音を恥とすることがなく、誇ることができるように導いてください。神さま、私が、信仰によって生きることを喜びとすることができるように、私の心に働きかけてください。主の御名によって祈ります。

9月1日月曜日
  若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、 「神は、高慢な者を敵とし、 謙遜な者には恵みをお与えになる」 からです。ペトロの手紙一 5:5 新共同訳

 若い人たちが長老に従うように、という勧めです。長老は人を支配するのではなく、模範を示していく人であり、へりくだった人です。その時に、力がないように見えるその人に対して、批判をしたり、たてついてみたりする誘惑があるでしょう。そのようなことを控えて、長老の言うことに従うことを学ばなければいけません。教会の秩序の中に、謙遜の御霊が広がっていなければいけません。主は、高ぶる者を退けられ、へりくだるものに恵みを与えられます。

(祈り)
天の神さま、他の人の行いを見て、自分の方がよくできると高ぶる思いを持ちやすい私たちをいさめ、へりくだるものにならせてください。あなたはへりくだる者を高めてくださるお方ですから、どうか、謙遜な態度を、いつも表すことができる者にならせてください。




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