今日の聖句 2025年7月 nagarenohotori
聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。
8月31日日曜日
「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。 民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。 見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」
イザヤ書
42:6-7
小さな子供の時、 私たちは親に手をつないでもらって外を歩きました。 親が握ってくれていると、子供はつまずいても転ぶことはありません。 手をつなぐとき、
子供は安心して歩くことができます。また手を握るとは 、愛と信頼の関係を表します。単に挨拶のための 握手ではなく、手を握り続ける時、 私たちは自分の全てで相手に関わっているのです。
手を握ると他のことはできなくなるからです。聖書 は神様が私たちの手を取って握ってくださっていると言います 。私たちは つまずくことがあり 、倒れそうになることがあります。
しかし、神様が手を握ってくださっていれば、倒れてしまうことはありません。 神様が私たちの手を握り続け 、ご自身の全てで 私たち一人ひとりに関わってくださっている。私たちの手は弱くなることがあるでしょう。
しかし、神様の手は、決して弱ることとなく、永遠に私たちを握り続けてくださるのです。
(祈り)
天の父なる神さま、新しい週を迎えることができ感謝します。今日も、あなたが私たちの手をとって導き、主の日を守らせてくださるように。どうか、厳しい暑さの中であっても、あなたが守ってくださることを、感謝して讃えて過ごせるように、主の御名によって祈ります。
8月30日土曜日
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」コリントの信徒への手紙二
4:6-7
私たちの体は弱く 、外からの攻撃を受けたら、ひとたまりもありません。 また、病気や怪我で思うように行動できない 不自由さを、全員が経験しています。
そして、この心も、揺れ動き、 浮き沈みの激しい 弱いものなのです。 聖書は、このような 弱い私たちを「 土の器」と呼びます。 しかし、 キリストに出会った時から、こんな
いつか 塵に帰る 土の器に、測り知ることのできない 尊い 宝が生き始めたと聖書は言うのです。 キリストご自身がこの土の器の中に住み始めてくださったのだと。
土の器にはできないことを 、キリストがこの中に住んで、行おうとしておられる 。私たちが自分の力では行うこともできない愛の業を行わせようとしておられる
。この土の器はいつか壊れるでしょう。 しかし、 キリストがこのに中に生きて行われる愛の業は永遠に滅びることはないというのです 。測りり知ることができない
キリストの力が、 この土の器を通して働かれているからです。
(祈り)
愛する天の父なる神さま、弱さを感じる時 、私の中に住んでおられる キリストを 見上げることができますように。 キリストが働いてくださるので、愛の業を励むことを喜ぶことができますように。キリストが輝いてくださるので、神の栄光を讃えて過ごせるようにならせてください。
8月29日金曜日
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。ガラテヤの信徒への手紙3:26-28
人は何ができるか、 何をしたか、 何を知ってるかによって自分自身を評価しようとし、また、他の人を心の中で蔑んだりします。 家柄や経済力
、社会的地位などによって高慢になる人がいる 一方、そのことで自己卑下に陥る人もいます。 しかし、 聖書は言います 。それらは神様の前では何の意味もないと。牧師や伝道者と言われる人たちであっても
、今日 神様に向かって 初めて「天のお父様」と震える思いで呼びかける人も、多くの神学書を書いた学者であっても、難しいことは何も分からず、 ただ、「
イエス様」と言って祈るだけの人も、多くの献金を捧げる人も、苦しい生活の中から絞り出すように 献金する人も、年齢、 性別、 肌の色も、何の違いもない
。神の前では同じである。 十字架のイエスキリストは、ご自分を見上げる 全ての者たちに、等しくその血を注いでくださるからです。全てはここに始まり
ここに完成するのです。
(祈り)
天の父なる神さま、他の人の能力、地位、財産を羨ましく思うことがあります。でも、それが足りないから、今の私が生かされていると感謝します。足りないことがあっても、あなたの恵みによって満たされているからです。神さま、どうか、私たちは十字架のイエス·キリストを見上げ、その血潮が注がれ、私たちがきよめられるように、主の御名によって祈ります。
8月28日木曜日
あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり あなたの神の御手の中で王冠となる。イザヤ書 62:3
イザヤ書62章では、エルサレム(シオン)のために神が決して黙さず、その正義と救いが朝日の輝きのように、また燃えるたいまつのように現れるまで忍耐し続けることが語られます。かつて「捨てられた者」「荒れ果てた者」と呼ばれたエルサレムが、神の選びによって「聖なる民、主にあがなわれた者」となり、「尋ね求められる者、捨てられない町」と呼ばれるようになると約束されています。神はエルサレムを喜び、結婚した花婿が花嫁を喜ぶように愛されることを告げ、再建された栄光あるエルサレムには見張りが置かれ、その声は全地に響き渡るのです。
(祈り)
主なる神さま、力強い預言の言葉が、私たちを励ましています。神さまの御心が行われ、世界が輝きを取り戻し、私たちが、主の栄光を見ることができるように助け導いてください。
ながれのほとり
8月27日水曜日
あなたの太陽は再び沈むことなく あなたの月は欠けることがない。 主があなたの永遠の光となり あなたの嘆きの日々は終わる。
イザヤ書 60:20
聖書は私たちの人生に罪があり、 失敗があり 、嘆き悲しみがあり 、そして別れ や 絶望さえあることを描き出しています。 太陽は昇っては沈みます。夜を照らすはずの月もかげり、
光のない夜を 私たちは経験します 。しかし、そのような中で 私たちのところにやってきて 暗闇になく 私たちを見つけ、 共に歩いてくださるキリストがおられるのです。
私たちの涙を拭ってくださる方がいる、これが聖書の教える祝福なのです。 たとえ 周囲が暗闇でも、私たちを照らす キリストが私たちを訪れてくださる。
足元を照らす光 、今日の一歩を導く光となってくださる 、それが太陽に光のように、 この心の暗闇に満ちてくるのです。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたは罪の故に、囚われ人となって、闇のようななかを歩いておる人々を顧み、憐れみ、自由をもたらし、光を輝かせてくださいました。主よ、どうか、私たちを照らす光が、いよいよ輝き、私たちを照らして、喜びのうちに、歩めるように導いてください。主イエス·キリストのお名前によって祈ります。
8月26日火曜日
主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。詩編 121:5-6
この詩篇121は神のご配慮について3つのことを語っています 。1 神のご配慮は休むことがありません 。夜も昼も神はは私たちを見守ってくださいます、2
それは きよめるご配慮です。 私たちが神と共に歩くならば 、私たちは全ての邪悪から守られます 。3それは日々のご配慮です。 危機の時に来るだけの配慮ではありません
。それは私たちの 外出 や帰宅を守ってくださいます 。私たちが自分の家庭で座ってる時にも、街頭を歩いてる時にも、日常の仕事してる時にも、神のご配慮は私たちを取り巻き続けています。
( 祈り )
神さま、私の周りにあなたのご臨在があることを、またあなたのご配慮が私を取り巻いていることを 、それゆえに私が安全であると感じられますように、
私たちに分からせてください
8月25日月曜日
あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。 ヤコブの手紙 4:2-3
この節でヤコブは、神様からの答えをいただけない祈りもあるというテーマを扱っています。
神様はすべての祈りに答えてくださるはずではないのでしょうか。祈り求める者たち皆が望み通りの祈りの答えを得るとはかぎらないのはいったいどうしてなのでしょうか。この疑問に対してヤコブは「あなたが自分の欲望を満足させるためだけに何かを神様から祈り願う場合、神様は善き御意思により、あなたにそれをお与えにはならない」と答えます。ともすると私たち人間は自分にかえって害となるようなものを祈り願うものです。ですから、そのようなものを私たちに神様が与えてくださらないのはよいことなのです。そもそも祈りとは、祈る者自身の欲求や快楽を追求するための手段ではありません。真の祈りには常に「神様、あなたの御心がなりますように!」という祈りが含まれています。
神様から答えをいただけない祈りはありません。神様は各人の祈りを聴いてそれに答えてくださいます。しかし、その答えはいつも私たちの期待している通りのものとはかぎらないのです。神様は「よし!」と答えてくださるときもあれば「否!」と言われるときもあり「まだ!」とか「待て!」と返答してくださる場合もあるのです。
(祈り)
主なる神さま、朝毎に祈れる恵みを感謝します。あなたが、さまざまな出来事を通して、その力を示され、私たちがあなたに向き合うことを引き寄せてくださっています。どうか、願いごとをするときには、あなたの愛と力を思い起こさせ、あなたのご意思にかなうものにに導いてください。
8月24日日曜日
わたしたちは近隣の民に辱められ 周囲の民に嘲られ、そしられています。 主よ、いつまで続くのでしょう。 あなたは永久に憤っておられるのでしょうか。
あなたの激情は火と燃え続けるのでしょうか。 御怒りを注いでください あなたを知ろうとしない異国の民の上に あなたの御名を呼び求めない国々の上に。 詩編
79:4-6
(当時の)異教徒たちは、どのように神の存在を確かめたかと言いますと、第一に、その作った偶像があります。第二に、戦争に勝つことです。戦争をするというのは、その国の代表する神々の間の戦いとみなされていました。ですから、相手国に勝つことは相手の神を自分たちの拝む神が打ち勝ったと考えたのです。エルサレムの神は、バビロンの神によって打ち倒されたと彼らは考えました。そこで、「彼らの神はどこにいるのか。」とあざけっているのです。
しかし、私たちの神は異なります。国が敗れれば神は弱く、国が勝てば神は強い、というような単純公式の中におられる方ではありません。神はむしろ、敵に敗れることを許すことによって、ご自分が生きておられることを証しておられるのです。
しかし、神はご自分の民を永遠に滅ぼされたのではありません。エレミヤの預言によれば、それは七十年という期間でありました。七十年の後に、神はバビロンを滅ぼして、ご自分の民をご自分の土地に帰らせてくださいます。
私たちが何かをして、それで神に何かをしてもらうということではなく、ひたすら神の前に出て、頭を垂れて、自分たちの至らなさを告白し、罪も告白し、神が働きかけてくださることを願い求めることです。そうするならば、神は真実な方ですから、ご自分の選びの民のためには動いてくださいます。
(祈り)
天にいます 私たちの神さま、 自分の罪を本当に悲しみ 、砕かれ 悔い改めた心という 捧げ物を、あなたに捧げることができるようにさせてください。神さま、私があなたを必要とする時に、あなたの過去の恵みを思い起こさせ、
もう一度あなたに忠実になることを願わせてください 。そして、あなたが私の未来に対しても 真の主であることを信じて歩むことができるようにしてください。
8月23日土曜日
神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。コロサイの信徒への手紙
1:19-20
私たちが神から離れ、心において敵となっていましたが、キリストがその肉体にその敵意を受けてくださったので、今、父なる神と私たちの間には、なんら隔ての壁がありません。それゆえ、私たちが父なる神の前に立つとき、なんと、何一つ汚れたものがない、聖なる者、傷のない者、非の打ちどころのない者として立つことができるのです。人の前でさえ、私は非難されるべきところが、たくさんあります。ましてや神の前には、数え切れないほどの咎をもっています。けれども、キリストの十字架のみわざによって、そのすべての咎が取り除かれました。
(祈り)
主なる神さま、私たちが平和であることは何と難しいことでしょう。怒りがある時,、不信感と苛立ちがある時、 不安 、恐れがある時 、私たちの心は平和を持つことができないからです。神さま、罪深い私たちが、キリストの十字架の血を受けてきよめられ、キリストの平和を受けることができますように、また、心の中にある痛みが癒され、赦される喜びに満たされるよう、主イエスさまのお名前によって祈ります。
8月22日金曜日
彼は裁判官に言った。「人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。裁きを下すとき、主があなたたちと共にいてくださるように。
今、主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。」 歴代誌下 19:6-7
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」 エフェソの信徒へ手紙 5:10
イスラエルの王ヨシャファテは、神を畏れる裁判官を任命し、不正のない公正な裁判を行うよう命じ、イスラエルの民に神に立ち返るよう呼びかけました。裁判官は、聖書では「神」とさえ呼ばれるほど、重責を担っています。裁かれる人の人生がすべて裁判官によって定められるからです。けれども、この裁判官は、かの日に神の前で自分が下した判決のことで申し開きをしなければいけないことを、ヨシャパテは「人のためではなく、主のため」と言って話しています。
私たちは、この世において歩んでいますから、絶えず、暗やみのわざの影響の下にいます。ですから、私たちは、いつも、今自分がしていること、また自分が置かれている状況が、主に喜ばれていることなのかどうかを吟味する(見分ける)作業が必要です。ここの「見分け」は、試すとかテストするとも訳すことができます。つまり、ある特定の事柄が、はたして主が喜ばれることなのかどうかを、自分で点数をつけるのです。私たちキリスト者は、自分自身で、主に喜ばれるものかどうかを採点するのです。喜ばれるようなものではなければ、その行ないからは離れて、遠ざかる必要があります。
(祈り)
天の父なる神さま、私の生活が信心と熱意を欠くものとなるのを望みません。私は自分の霊的生活が本物になることを望みます 。私の活動があなたを讃えるものとなりますように。
どうか、私の生活の中で あなたの霊の実を豊かに結ばせてください 。私の信仰を深く成長させてください。
8月21日木曜日
思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
ガラテヤの信徒への手紙 6:7-8
パウロは、分け合うような行為を「種を蒔く」ことに言い換えています。種を蒔けば、実を結び、刈り取りがあります。霊的にも同じ法則があるということです。
私たちが自分のことしか考えずに、自分の腹のためだけに財産を用いるのであれば、それにふさわしい報いを受けます。けれども、御霊についての事柄に財を費やせば、永遠のいのちを刈り取ります。この原則は財産だけに限りません。私たちが、テレビ番組を見つづけて、それで霊的に成長しようと考えるのは間違っています。けれども、みことばに取り組んでいれば、必ず豊かないのちにあずかるようになるのです。
(祈り)
神さま、世に認められることには無関心に、けれども、あなたに認められることに敏感であるような私にしてください。 見せかけや ポーズ で良い行いをするような生き方から、私を遠ざけてください。私自身をあなたにさらけ出し、
心からあなたの言葉に耳を傾けることができるように、また、私たちが 誠に求めるべきものが何か、を示してください。主のみ名によって 祈ります。
8月20日水曜日
「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」マタイによる福音書
6:20-21
古代では、財産は地下に埋められました。もし地下に蓄えたら、その金は虫くいとさびで、みずものにきずものになり、また盗人が穴をあけて盗みます。つまり、地上に蓄えても、それはずっと残る事はない、という事です。しかし、天に蓄えると、それは永遠に残ります。したがって、私たちが得た収入は、すべて神のものであることを認めて、どのようにすれば天の御国のために用いられていくかを考えなければいけません。
私たちが物を持つこと自体に何も悪いことはありません。ところが、私たちの思いや考えは、ここに書かれているとおり、自分の持っているものによって大きく左右されます。したがって、財産を地上に残す事よりも、神の御国のために用いることを考える時、私たちのこころは自ずと神にむかうことができるのです。
(祈り)
天の父なる神さま、日毎の糧を、また生活のための必要を与えて命を守ってくださることを感謝します。どうか、私の財産、また所有物あなたに委ねることができますように。しっかりと握りしめて失うまいとする私の所有欲を取り除いてください。そして、あなたこそ私の未来であり、信頼であることを覚えさせてください。
8月19日火曜日
その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。 主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ 害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。イザヤ書
27:2-3
連日の厳しい 暑さの中 、植物は十分な水を必要としています。この時期 、虫もたくさん発生します。せっかく 膨らんできた つぼみや葉が虫に食い荒らされているのを見ると、とても残念な気持ちになります。
しかし 、虫がついて 花や葉が汚くなってしまっても、その木に水をやらないということはないのです。 また新たな芽が出て、美しい花を咲かせることを知ってるからです
。その姿を思い浮かべながら、水をやり続け 、汚い葉を取り除き、虫を退治するのです。 私たちは自分の失敗や罪、 心の汚さを見ると、神様の恵みがわからなくなってしまいます
。こんな自分には神様の恵みは来ないのではないか。 神様は自分から離れて行かれるのではないかと。私たちは 虫に食わ虫に食われているのかもしれません。葉
も汚くなってしまっているかもしれません 。しかし、神様は私たちに水を注ぎ続け 、汚くなった葉を取り除き、虫を退治してくださるのです 。やがて
新しい芽が出、美しい花が咲く 姿を思い浮かべながら、いのちを注ぎ続けてくださる 神様がいる、 神様の温かい目は日々私たちの上に注がれ 、神様の御手は日々私たちに伸ばされているのです。
(祈り)
父なる神様、あなたのお守り、 優しさ 、慈しみ 、赦しに感謝します 。私たちが 数 限りなく 罪を犯してることをご存知なのに、それでも愛し続けてくださる
あなたに感謝します 。どうか、あなたの愛に値するものになれますよう、お導きください。
8月18日月曜日
あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む。 その日には、あなたたちは言うであろう。 「主に感謝し、御名を呼べ。 諸国の民に御業を示し
気高い御名を告げ知らせよ。 主にほめ歌をうたえ。 主は威厳を示された。 全世界にその御業を示せ。」
イザヤ書 12:3-5
私たちの喜びの源は、主の救いから出てきます。私が罪人であり、ただ滅んで、永遠の刑罰を受けなければいけない存在であった。にもかかわらず、神が一方的に憐れんでくださり、キリストの贖罪によって私たちを救ってくださった。この事実から出てくる喜びです。
賛美せよという呼びかけの後に、語り告げよという命令があります。つまり、霊の救いを受け、そのために主を喜び、そして主の御名を人々に知らしめるという働きです。これは今、教会に委ねられています。私たちは、あらゆる国々に御名を知らせていかなければなりません。
(祈り
恵み深い天の神さま、私のような罪深い者を赦し、信仰する喜びを与えてくださり感謝します。神さま、わたしが現状に満足することなく、あなたに励まされて委ねられた務めを果たすことができるように、御心に従わせてください。
8月17日日曜日
人生の年月は七十年程のものです。 健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。 瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
御怒りの力を誰が知りえましょうか。 あなたを畏れ敬うにつれて あなたの憤りをも知ることでしょう。詩編 90:10-11
荒野のイスラエルの民は神によって寿命が定められました。神のかたちに造られた人間は、初め永遠に生きるように造られました。しかしアダムが罪を犯したために死が世界に入り込みました。外なる人が衰えて、多くが病を患い、ついに死に絶えることは、神の意図ではありませんでしたが、この苦しみこそが、神の怒りの表れです。
パウロが言いました。「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(エペソ5:16)」
あの不正の管理人の話も思い出します。彼は、主人の費用を乱費して間もなく首になりますが、失業後の生活についてよく考えました。主人に対して債務がある人に対して、その債権証書の額を小さくしてあげました。恩義を売ったのです。それで恩義を売った人々のコネで、もしかしたら次の職が得られるかもしれないと思ったのです。こうやって最後の最後まで不正を働いていますが、主人はこの抜け目なさを逆にほめました。それは、先のことのために今与えられている機会を十分に用いたからです。
私たちは永遠のために、今の一日をどのように用いているのでしょうか?たいした目的もなく、何時も同じ事をしているな、と退屈にさえなっていたら、神さまの永遠が見えなくなってしまっています。
(祈り)
天の父なる神さま、新しい週の新しい朝を迎えることができて感謝します。先週はいわゆるお盆の休みで、先にこの地上での旅路を終えた人々を追憶する時を持っており、改めて人生に限りがあることを覚えています。造り主なる神さま、どうか、あなたを覚え、あなたを畏れ敬うことを、これからも、日々の生活の中で守らせてください。主イエスさまのお名前によってお祈りいたします。
8月16日土曜日
主はカインに言われた。 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 創世記
4:6-7
カインは落ち込んでいました。自分で間違っていることを分かっていたのです。けれども、それを認めることをしたくなかったので、自分の心のうちにある憤りを内に閉まっておいたのです。カインの道とは、自らをへりくだらせない道です。罪を告白しない道です。神の光のところに来て、自分が持っているものをすべて明らかにしていただくことをしないのです。自分が正しいという思いを捨てられず、神が正しいということを認めることをしないのです。神よりも自分が正しいと思っているのです。でも、自分が間違っていることはうすうす分かっています。だから、ふてくされているのです。そして神は、悔い改めの機会を与えておられます。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。」これは、3
章にあった女が男を恋い慕う、と同じ言葉です。つまり罪がカインの心を自分のものにしたいと思っている、という意味です。けれども神は、かえってお前はそれを支配せねばならない、と励ましておられます。つまり、私たちが自分の思いにある罪を、神の方法できちんと処理しないと、それが大きくなって、いつしか自分を支配するようになる、ということです。ヤコブ書に、その増幅する罪の表現が書かれています。「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(1:15)」です。ですから、そうならないうちに捨てる必要があります。箴言には、「罪を隠している者は栄えない。
告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。(28:13)」とあります。
(祈り)
天にいます 私たちの神さま、 私たちは 物事がうまくいかない時に、自分のことは棚に上げて、他の人々を困らせることを行いがちです。また私たちは誰かに悪を行った時に、その被害者がたとえそれに気づかなかったとしても、
私たちとその人の間に必ず 障害が生じてきます 。それは私たちと神との間に一つの障害物を与えるものだからです。 自分が悪を行ったことを知っている人は、自分を神から必ず
隠そうとする企てるものです。神さま、どうか、偽りのない行い、問題のない行動を行って、あなたの栄えにあずかることを求めさせてください。
8月15日金曜日
「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。 わたしの唇はあなたをほめたたえます。 命のある限り、あなたをたたえ 手を高く上げ、御名によって祈ります。」詩編
63:4-5
命にも勝るもの、それは神の恵み、あるいは好意、親しみです。自分のために、血を流して自分を買い取ってくださったところの恵みです。神に敵対している罪人のために、御子を死に渡すほどの愛です。この恵み、愛が、自分の命よりも勝るようになるのは当たり前です。
今、荒野においてダビデが手を上げて、賛美の歌をうたっているのが想像できますか?彼は、その荒野を自分の礼拝場としました。ユダヤ人は、神を礼拝するときにいろいろな身振り、手振りをしますが、両手を上げるのもその一つです。
そしてここでは、祈るときにも両手を上げていることが分かります。賛美をして、そして祈るときに両手を上げています。
(祈り)
天の父なる神さま、暑い暑い日が続くなか、私たちの健康を守り、多くの良いことを表してくださる、あなたの慈しみを覚えます。神さま、どうか、あなたへの信頼をますます高め、どんなことが起きようとも、揺らぐことのない慈しみを見いだして讃えることを行わせてください。
8月14日木曜日
「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
マルコによる福音書 11:25
人を赦しているか、そうでないかは、私たちが神の赦しを信じているか、信じていないかによります。もし人を赦さず、苦みを持っているのであれば、その人は神の赦しを本当に信じているとは言えず、その人自身が神の赦しを受けることができるかが定かではありません。なぜなら、神の性質そのものが、赦しとあわれみであり、その神と交わりを持っているなら、自ずと赦しとあわれみによって生きざるを得なくなるからです。使徒ヨハネが、同じことを言っています。「
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に目に見えない神を愛することはできません。(1ヨハネ4:19-20)」したがって、人を赦すことは、神との交わりを持つに当たって、非常に重要なことになります。
(祈り)
憐れみ深い 天の神さま、。 あなたの声に私を傾聴させてください そしてあなたが語る時に私に服従する勇気をお与えください。神さま、私に他の人を赦す
心を与えてください。 しばしば 、私たちは他の人の行為を憎み、 いつまでも怒りの気持ちを持ち続けてしまうものです 。どうか、自分の行動を棚上げにして、他の人の行動に腹を立てることがなく、
常に赦す気持ちを持たせてください。主のお名前によって お願いいたします。
8月13日水曜日
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」ヨハネによる福音書 3:19-21
多くの人が、イエス様を信じない理由として、「理解できないからだ」とか、「知的に困難を感じる」とかいろいろな事を言います。けれども、実は「自分の行なっている悪を愛しているからだ」が本音なのです。今までの自分の生き方を変えたくないのです。イエス様を信じることは、これまでの自分の心のままで生きてきた自分中心の生き方から方向転換し、神に中心軸を合わせる生活に変えることを意味します。自分が行なってきた悪が明らかにして、それを神の前に持っていかなければいけなくなります。だから、信じないのです。
「真理を行なう」とは、自分の罪を認めて、神の前にへりくだって出て行くことを意味しています。「私は罪人です。神様、どうかこの者を憐れんでください。できますならば、この罪を赦してください。イエス様が十字架につけられたのは、まさに私のためです。そして生き返ってくださったことも信じます。このイエス様に、これから私は従っていきます。」こういう心を持っている人です。この人は光のほうに来ることができます。罪がすべて洗い清められ、新しく生まれ、神の子供としての特権が与えられます。
(祈り)
天の父なる神さま、私たちを造り、光の中を歩むように導いてくださる、あなたの恵みと愛を讃えます。それに比べ、光を避け、暗闇を好む私たちの罪深さを悲しみます。神さま、どうか、私たちをまことの光の方に引き寄せ、真理を愛し、悪を憎む者にならせてください。主の御名によってお祈りいたします。
8月12日火曜日
神はわたしに力を帯びさせ わたしの道を完全にし わたしの足を鹿のように速くし 高い所に立たせ 手に戦いの技を教え 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。 詩編
18:33-35
この詩篇は、ダビデがサウル王の執拗な殺意から救い出され、統一王国の王となった時に、自分がいかに神のあわれみと恵みによって、死から命へと導かれたかを思い起こしながら詠んだ歌です。
ダビデは神が、強固な砦、守り、救い、力となったと率直に讃えています。これほど素直に歓喜にあふれ、神の威力を評価し、神を近く覚え、心から讃えられるのは、苦難にあってまことに神を信頼し続けた結果です。信仰の成果は、日々の積み重ねで、連続的なものであり、思いついた時に効果をもたらすものではありません。まさに「継続は力なり、聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものです」。天変地異にも等しい、神の介入がダビデの人生を変えた、そこに私たちの希望もあるのです。
(祈り)
憐れみ深い天の神さま、あなたはいつも私の状況を知っておられ助けの手を差し伸べてくださいます。 どうか、 もっとあなたとの時間を大切に過ごし、
ご臨在の中でいつも喜んで過ごせるように導いてください。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。
8月11日月曜日
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイによる福音書 5:11-12
(祈り)
天の父なる神さま、あなただけが私たちを変える力をお持ちです 。今日 、愛のない私たちを、どうか、あなたが変えてください 。私が誰かを傷つけ 、その人が私の敵になったのならば
、私の思いやりのない心を赦してください 。私が知りながら、 また知らずして傷つけた人を豊かに祝福してください。 そして、その人たちと私が敵ではなく、友となれるように導いてください。尊い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
8月10日日曜日
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
エフェソの信徒への手紙 5:8-9
ここの暗闇は、4章18節に出てきた「知性において暗くなり」ということであります。神についての知識がないので、いや、その知識を拒んだので、心がむなしくなり、神のいのちから遠く離れました。そして、道徳的にも無感覚になり、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになったのです。これが「暗闇」です。しかし、今は、「主にあって、光となりました。」とあります。キリストによって神の知識に至り、神のいのちを得て、新しい人に変えられました。
私たちが光である神とキリストを知って、それによって、善意と正義と真実という実が結ばれます。光というと、知識を持っていること、悟りを得たことと私たちは考えてしまいますが、聖書では、このような道徳的な行ない、良い行ない、聖い歩みを指しています。 私たちは、この世において歩んでいますから、絶えず、暗やみのわざの影響の下にいます。ですから、私たちは、いつも、今自分がしていること、また自分が置かれている状況が、主に喜ばれていることなのかどうかを見分ける作業が必要です。
(祈り)
天の父なる神さま、過ぎる週も、猛暑の中での私たちの歩みをお守りくださり感謝します。どうか、この新しい週も、神さまのお守りを信じて歩むことができるようにお導きください。私たちには、あなたを礼拝する特権が与えられています。今日も、あなたの恵みとお守りを感謝して、霊とまことをもって、礼拝することを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
8月9日土曜日
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」マルコによる福音書
2:27-28
キリスト教用語で「聖日」を守るという言葉があります 。キリスト者として日曜日の礼拝に出席することが 神の栄光を この地に表すことになる 。従って
、キリスト者が日曜礼拝に出席することは当然の責務だという意味のようです 。しかし、そこには人間の行為 だけ が語られています 。神様はどこにいるのでしょう。
主イエスは言われました。「人の子イエスは安息日も主だ」と。安息日は私たちが守るために設けられたのではなく 、創造主なる神が私たちを守り、 命を回復させるために設けてくださった
創造主の日です。主が疲れの中にある私たちに命を注いでくださる 。気落ちしたものに希望を与えてくださる。 病んだものを癒してくださる。 主イエスは、このことを明らかにするために、安息日
病人を癒やし続けられました。 そして、 安息日を 形式的に守ることを 史上命令とする人々に殺されることになるのです 。キリスト教会は、主イエスが復活
なさった日曜日を聖日、キリスト者の安息日としてきました。 主イエスが願っておられることは、この日、ともに集まって礼拝する者たち 、また事情で集まることができない者たちが、元気になることです。
希望を回復することです。キリストの命を受けることです。
(祈り)
主なる神さま、暑い日が続くなか、過ぐる週も守られたことを感謝します。また、広島、長崎に原爆が落とされた日を思い返し、なお被爆の生活を送る人々が守られ、癒やされることを願います。どうか、今日の聖日、イエスさまのところにやって来る一人一人に、イエスさまの溢れる命と癒し、問題の解決が与えられますよう、尊い主の御名によって祈ります。
8月8日金曜日舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。
泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。
ヤコブの手紙 3:9-11
教会の礼拝において、私たちは神を賛美します。人間の舌が最大限に良いものに使われるものとして、神への賛美ほど適切なものはないでしょう。けれども、私たちは日常生活の中で、自分に気に食わない人をののしり、悪口を言います。これほど矛盾したことはない、ということです。ここでヤコブは、人を「神にかたどって造られた」と言っていますが、人をののしることは、神をののしっているのと同じことだ、ということです。
賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。このようなことはあってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。
一方で神を賛美して、他方で人をのろうのは、同じ泉から甘い水と苦い水が出てくるようなもので、決してあってはならないことです。完全に矛盾しています。
いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりするようなことは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。 一つの口からは、賛美と感謝の実がなるべきであり、そこからのろいの実が結ばれてはいけません。
(祈り)
私たちの救いの神さま、 あなたのお守りのすべて、 あなたの恵みのすべて、 あなたの贖い・ 救いのすべての故に、私たちはあなたを賛美します。 どうか、私たちに、
あなたの偉大な力と素晴らしい愛を思い出すことによって、感謝の気持ちを持ち、私の恐れを消してください 。神さま、 あなたの手を広げて 私の舌と心を
あなたの豊かさで満たしてください。
8月7日木曜日
それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
ルカによる福音書 11:42
イエスは、十分の一を納めることはなおざりにしてはいけないが、そのことにあまりにも気を使うために、もっと大切な公義、神への愛はなおざりにしていると言われています。教会には、いろいろなきまりと儀式がありますが、それらをなおざりにしてはいけません。洗礼、聖餐式、献金などがあります。けれども、それを中心的な課題にして、この人は洗礼を受けるべきか、聖餐式に自分は参加できるのかなど、儀式のことを中心にしているのであれば、パリサイ人たちと何ら変わらないのです。もっと大事なことは、何でそのなことをしているのか考えることです。洗礼ならば、古い人がキリストとともに死に、キリストにある新しい人を身に着けたことを表します。それでは、本当に、自分の生活がキリストにあって新たにされているでしょうか。今日が昨日よりも新たにされているでしょうか。これが、イエスが言われている公義と神への愛であり、そのことを自分の信仰生活の中心に据えなければいけません。
(祈り)
憐れみ深い天の神さま、この地上で正義をなそうと努める人たちのために祈ります 。広い心で人を愛し、御声に耳を傾けることができますように。私たちが生きた信仰を持ち、あなたが喜ぶことを行うことができるように、助けてください。
8月6日水曜日
わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。コリントの信徒への手紙一
14:18-19
パウロは、異言を語ることをやめさせようとは決してしていません。異言は自分にとってすばらしい賜物であることを認めています。パウロ自身、たくさんの言語で異言を語っていたようです。けれども、教会にいるときには預言を語ります。異言で一万語話したとて、なんら意味をなさないのであれば、たった5つの言葉(例えば、神は愛、神の恵み、など)を話したほうが、人々の徳を高めることができるからです。
(祈り)
天の父なる神さま、あなたは私たちに賜物を与え、教えること、証すること、指導すること、預言すること、異言をかたること、癒しを行うことなどを導いておられます。どうか、賜物を用いて、私たち信じる者の徳を高め、あなての御業を進めることをかなえてください。
8月5日火曜日
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」マタイによる福音書
13:44-46
イエス・キリストは、神の国とは「畑の中に隠された埋蔵金」「 高価な真珠を見つけた 商人」のようなものだと言われました。 銀行などがない時代、
貯まった硬貨は 壺に入れて 地中に埋め、盗まれ ないようにしていました。 古代イスラエルでは埋蔵金は土地の所有者のものとされたので 、小作人が耕作中に埋蔵金を見つけると、全財産を売り払ってでも、その土地を買わないだろうかと言うのです。
また養殖の技術がない時代において、 真珠は非常に高価なもので、良い真珠は莫大な富をもたらしました。キリストは言われるのです。 神の国 、つまり、神による支配というのは「畑の中に隠された埋蔵金」「
高価な真珠を見つけた 商人」のようなものだと。 これには2つの意味があります。 キリストを見いだした人が自分の全てを投げ出してキリストについていくという意味と、私たち一人ひとりをご自分の宝物として
見出し 、それを買い取るために ご自分の全てを 十字架に捧げ、 血を流して贖ってくださったキリストという意味です。しかし、これらは別々のことではありません
。キリストに出会う時に、キリストがこんなものをご自分の宝として 見出してくださったことを知ります。 そこに絶大な喜びがあります。 しかし、その時、
私たちも キリスト こそ、自分にとって最も価値あるもの、 絶対に失ってはならないものであることを知るのです。キリストが私たちのために十字架に捧げてくださった命を受けるとき、私たちも自分の命を
キリストに捧げるようになっていきます 。私たち一人ひとりが キリストの宝となり、 キリストが私たち一人ひとりの宝となる 。この両者は一つである。
ここに神の国 、神の支配があるとキリストはおっしゃっている。今もキリストは、私たち一人ひとりを求め、 やってきてくださる。
(祈り)
天にいます私たちの造り主なる神さま、危険な暑さの中を守られて過ごす恵みを感謝し讃えます。どうか、与えられているときとところの中で、キリストと言う宝を見出すことができまがすように。キリストが私たちの宝となりますよう、その教えに聞き従わせてください。
8月4日月曜日
祈りを聞いてくださる神よ すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。 罪の数々がわたしを圧倒します。 背いたわたしたちを あなたは贖ってくださいます。詩編
65:3-4
私たちは肉の体を持っていますから 、痛みや苦しみの中で 祈れなくなることがあります。 また、肉の心が 神様から私たちを引き離そうとすることがあります。咎が私を圧倒し、神様の顔を見上げることはできなることもあるのです。自分の力で神様ところに行くことができないのが私たちです。
しかし、私たちの心の奥底 、魂の奥底に言葉にならない 神様に対する思いがあります。 聖書は言います 、神様はそれを一つも聞き逃さず聞いてくださっていると
。そして、私たちの罪を赦し 、御許に引き寄せてくださると 。
(祈り)
天の父なる神さま、暑い日のなかを守ってくださり感謝します。それでも、暑さのためにつぶやいてしまいます。
どうか、今日、私たちの心のつぶやきに、耳を傾け 、手を伸ばしておられる イエス様を経験することができますように。また、孤独を感じる時に、引き寄せて抱きしめてくださる
イエス様の暖かさを知ることはできますように 。主の御名によって祈ります。
8月3日日曜日
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。 民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。 イザヤ書
42:6
子供の時、私たちは親に手をつないでもらって外を歩きました 。親が握ってくれていると、子供はつまずいても転ぶことはありません 。手をつなぐとき
、子供は安心して歩くことができます。また、手を握るとは 、愛と信頼の関係を表します 。単に 挨拶のための 握手ではなく、手を握り続ける時、
私たちは自分のすべてで相手に関わっているのです。 手を握ると他のことはできなくなるからです。 聖書は神さまが私たちの手を取ってくださっていると言います。
私たちは つまずくことがあり、 倒れそうになることがあります。 しかし、神さまが手を取って握ってくださっていれば倒れてしまうことはありません。
神さまは私たちの手を握り続け、 ご自身の全てで 私たち一人ひとりに関わってくださっています。 私たちだけは弱くなることがあるでしょう 。しかし神さまの手は決して弱ることなく、永遠に私たちを
握り続けてくださるのです。
(祈り)
天の父なる神さま、私たちの手をとって握りしめ、共に歩いてくださることを感謝します。それは私たちが、道を迷わないためであり、道端に倒れないためであります。どうか、神さまの手に表されている温かい愛に引かれて、私たちが御国まで導かれるように歩ませてください。
8月2日土曜日
「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」
ローマの信徒への手紙 13:14
私たちは自分が持っている一番良い服を着るとき、どうするでしょうか 。お風呂に入ったり、シャワーを浴びたりして体を洗い 、お化粧をしたりしませんか
。そして 鏡の前に立ち、 どこもおかしなところはないことを確認してから外出するものです。 汚い体、 ボサボサの髪のままで綺麗な服を着たいとは思わないものです
。良い服はあなたを素晴らしく 映し出します 。だから、自分自身を最高の状態でいたいと思うのではないでしょうか 。私たちは最高の衣装を着て、どこに出かけて行きたいでしょうか。
何をしたいでしょうか。 誰に会いたいでしょうか。 イエス様を心に着ることができたら、 イエス様はきっと その 気高い人格で私たちを 素晴らしく
映し出してくださいます 。その時、私たちは、イエス様にふさわしい心の持ち主でありたいと願うようになるのです。
(祈り)
天の父なる神さま、私たちは社会の中で、生かされています。どうか、社会のなかの流れに染まって、強欲になったり、不道徳な行いに陥ったり、わがままな振る舞いを身に付けたりすることがないよう、主イエスの愛の教えを身にまとわせてください。また、私たちに恵みとまことを装わせ、キリストの輝きのなかを歩ませてください。
8月1日金曜日
我々を見捨てないでください。 あなたの栄光の座を軽んじないでください。 御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留め それを破らないでください。
国々の空しい神々の中に 雨を降らしうるものがあるでしょうか。 天が雨を与えるでしょうか。 我々の神、主よ。 それをなしうるのはあなただけではありませんか。
我々はあなたを待ち望みます。 あなたこそ、すべてを成し遂げる方です。エレミヤ書 14:21-22
選ばれた神の民に、犯した罪(神の教えに従わなかった)の故に、神の裁きが下っていました。そして、神の審判の下に平伏すことの中から、「我々を見捨てないでください。あなたの栄光の座を軽んじないでください。・・・」(21節)という神の恵みを請い願う祈りが生まれています。民に残された唯一の希望は、神の恵みです。神は契約を破棄する権利を持っておられるが、なお民との契約に誠実であり給うという神の愛と恵みにのみ希望を置いています。この信仰から、22節に見られるヤハウェに対する神への真実な告白が生まれたのです。「我々はあなたを待ち望みます」と。神の恵みに目を止めることによって救いの道が開かれるからです。
(祈り)
天の父なる神さま、病に苦しむ友の癒しのために祈ります。どうか、あなたの御名の栄光を見させてください。民族の争いのため、飢餓に苦しむ人々への援助物資が届けられるようにしてください。またそのための経済的な支援を行うことができますように。それぞれの国の為政者が、あなたの恵みと愛の前にぬかづくことができますように、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
今日の聖句2025年7月
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