今日の聖句  2025年7月    nagarenohotori      

      聖句は基本的には新共同訳聖書を使用しています。



7月31日木曜日
 主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。 天が地を超えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。  東が西から遠い程 わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。詩編 103:10-12

神は、イスラエルの民に対する恵みを思い起こさせています。かつてモーセに、ご自身のことを憐れみ深い、情け深い、怒るに遅い、恵み豊かであると啓示されました。それに従って、イスラエルが反抗したけれども、いつまでも怒っておらず、その咎にしたがって報いることはないと言われています。
 そしてその恵みの高さと、広さを述べています。ここの「恵み」とは、ヘセドと呼ばれる言葉です。神の好意であり、真実な愛のことです。する必要もないのに、約束して必ず成し遂げる愛です。それがいかに高いものであるかを言い表しています。なぜ恵みが下に行かず、上なのでしょうか?
 それは、神は天の御座におられるからです。死んで裁きを受けなければいけない者が、神ご自身の天にまで及ぶ恵みを与えてくださいました。私たちは、天の幻をいつも持っています。それは、キリストが信じる者たちの間で満ちる時に、私たちはそこに天国の実体を体験できます。そして、主が天から来られて、私たちを引き上げてくださるからです。
 そして、罪については東西が遠いように、引き離してくださいます。日の上るところから沈む所まで、自分の目にする最も遠い距離において、神は罪を引き離してくださいます。ですから、ここでも世界的な広がりをもって、罪の赦しが説かれているのです。どこまでも、どこまでも罪に到達することのできない国、それが神の国です。

(祈り)
天地の造り主である主なる神さま、私たちは世界のニュースを聞き、見、読み、地上 での、不条理な戦争に、あまりにも無分別な悪行に絶望してしまいます 。それゆえ 、あなたの救いの言葉を再び 聞き、見、読むことによって、その溢れるばかりの憐れみと恵みによって、希望を取り戻し、神の国 の 永遠の命を待ち望みつつ、キリストの愛の業に私たちを加わらせてください。


7月30日水曜日
 わが子よ、わたしの言うことを守り 戒めを心に納めよ。  戒めを守って、命を得よ。 わたしの教えを瞳のように守れ。 それをあなたの指に結び、心の中の板に書き記せ。   箴言 7:1-3

詩篇 119:11 口語訳  わたしはあなたにむかって 罪を犯すことのないように、 心のうちにみ言葉をたくわえました。 物が自分の方に飛んできたら、私たちは条件反射的に目を閉じます。瞳を守るために私たちは全身をかがめることさえします。同じように、自分の最も大事なものとして私の命令を守りなさい、と言っています。
 指に結べば、自分がいつも、何か作業をしているときにすぐに目に入ります。そしてもちろん、目に留まるようにしておくだけでなく、心の板にも書き記します。しばしば暗誦聖句をしても、それを生活で生かしていないことがありますが、心の板に書き記さなければいけません。

(祈り)
天にいます 父なる神さま、私の生き方が、私に向けられているあなたの愛に対する応答となりますように。 私の行い、 言葉、 考え、 望み、 それら全てが主イエスさまによって示されているあなたの大いなる 臨在への一つの応答となり、 同時に また私の利己心や 傲慢さが問題とされますように導いてください。 尊い主のお名前によって 祈ります。

7月29日火曜日
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。  「主の名によって来られる方、王に、 祝福があるように。 天には平和、 いと高きところには栄光。」
ルカによる福音書 19:37-38

オリーブ山の下りにさしかかり、エルサレムが見え始める頃、大勢の弟子たちが賛美を始めました。エルサレムが近づき気分が高揚したということがあるでしょう。そして、ここにあるように多くの癒しや奇跡を目撃してきた事が思い出されたのでしょう。
 すぐ直前では盲人が見えるようになって一緒について来たし、村にて「主がご入用なのです」と一言伝えたら、ロバを譲ってもらえました。「イエス様すごすぎます!」と言う感動があったのでしょう。
 ただ、この時エルサレムへの巡礼に向かう一群の中にはパリサイ人たちもいました。彼らは弟子たちがイエス様をほめて、神様を賛美しているのを良く思いませんでした。それで弟子を叱るようにイエス様に言いますが、イエス様の答えはこうでした。
40節 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
 私たちの心に起こった感動。そこから生まれる賛美、あふれる感謝。それらは誰にも止めることができません。
 私たちの賛美したいという思いは、誰にもかき消すことはできないからです。

(祈り)
喜びに満ち溢れ、 栄光に輝く 神さま、 愛に満ちた あなたをたたえます。 日の光のもとで、 花のつぼみが開くように私の心はあなたの前で開花します 。罪や憂いの雲を散らし、疑いに満ちた 暗雲を遠ざけてください。 尽きることのない喜びの源なる神さま、どうか今日という一日をあなたの光で満たしてください。

7月28日月曜日
 だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。  御国が来ますように。 御心が行われますように、 天におけるように地の上にも。」マタイによる福音書 6:9-10

私たちの意志は自由に用いるために与えられたものです。 私たちはアダムがしたように、自分の意志決定によって、その範囲がどこまで認められているかと、あれこれ 生意気 に主張 することもできるのです。 それとは反対、に キリストがなさったような 意志決定 もできるのです 。それは大きな広がりの中 に実現する まことの自由を認め、 創始者であり 救い主である方の意志を受け入れることなのです。

(祈り)
天の父なる神さま、御心が行われますように 。この創造された世界において 救いと贖いというあなた の ご意志があまねく 広がりますように。 神の業として全ての人々やあらゆる物を共に 包み育んでいくものとなりますように。 そしてまた罪にとらわれている私自身の意志を解き放ち、 あなたの義なる働きに参加させてください。主の御名によって お願いいたします。

7月27日日曜日
  ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。 恐れるな、わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名を呼ぶ。 イザヤ書 43:1

 ここで、神はイスラエルを特別な関係で呼ばれます。「あなたを創造された」また「あなたを造られた」と。初めの「創造された」は創世記にも出てくる、「創造した」と同じヘブル語「バラ」です。無からの創造です。主は、アブラハムという異邦人を召し出されて、それで彼からイスラエルの民族と国をお造りになられました。 無から有を創造するその力で、主はイスラエルを造られたのです。 そしてその後で「造る(形造る)」ことを行なわれました。モーセを通して律法が与えられ、イスラエルとそうではない民の区別をはっきりとさせました。 そしてその民を、「贖う」と言われています。それゆえ「わたしのもの」という言葉が続きます。神はイスラエルをこよなく愛しておられます。その理由の一つは、ご自分が造られたこと。自分が造ったものには愛着心があるように、です。けれども、それを失ってしまいました。見つけて、自分のものとしたときには、なおさらのこと愛着心を抱きます。「これはわたしのものだ。二度と、手放さない。」と思うはずです。主が今、「わたしが贖う。」と言われているとき、その二度と離さない、という強い思いがあるのです。 神は同じように、キリストにある者たちを愛されています。一つは、私たちをお造りになられました。だから愛しておられますが、罪によって失われてしまった私たちを、キリストの血の対価によって再びご自分のものとされました。だから貴重なのです、高価で尊いのです。

(祈り
天にいます父なる神さま、私たちを創り、かたち造り、そして贖ってくださる、あなたの限りない愛を讃えます。どうか、あなたの御手のなかで、導かれ、養われて憩うことができますように、特に、この暑さのなかを守られて過ごすことができるよう、あなたの恵みを注いでください。

7月26日土曜日
  主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 マタイによる福音書 25:21

「忠実な良い僕だ。よくやった。」キリストが再び来られる時、私たちはキリストからおほめのことばをいただくのです。彼は、忠実であったことをほめられています。そして、主人は、「お前は少しのものに忠実であったから」と言っています。よく考えてください。 5タラント、3億円相当のお金を、「わずかな物」と言われているのです。クリスチャン生活は、祝福に満ちた生活です。この世において、愛、喜び、平安など、キリストがなければ決して得ることができないものを持っています。罪が赦されて、信仰によって正しい者とされて、天と地を造られた神を、「お父さん」と呼ぶことができるのです。けれども、それは、神にとってほんのわずかな物にしかすぎません。神は、私たちにたくさんの物を任せられますが、私たちが到底考えつくことのできない祝福を、私たちのために天に用意されています

(祈り)
天の神さま、あなたは見えないかたちですが、私たちに多くのものを託しておられます。どうか、託されたものを用いて、良い実を収穫できるように働くことができますように。間違っても、預けられたものを大事に持っいるだけの、働きのない行いに陥ることがないように見守ってください。

7月25日金曜日
  神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
コリントの信徒への手紙一 15:10

 パウロは、とんでもない罪を犯していたのにもかかわらず、神に罪を赦されて、イエス・キリストを宣べ伝える者とさせていただきました。今、このように自分がいるのは、みな神の恵みによるのです、と言うことができるほどになっているのです。パウロは、復活のイエスに出会い、イエスさまによって自分を変えていただき、イエスさまにあって今の自分がいる、と言うことができました。 神の恵みをほんとうに知った人は、何もしないでいることはできなくなります。キリストの愛に駆り立てられて、多くの働きをするようになります。イエスさまは、売春婦の女についてこう言われました。「多く赦された者が、多く愛するのです。」自分が多く赦されていることをほんとうに知っている人は、自ずとその赦してくださった方を愛するようになります。

(祈り)
天の神さま、暑い日が続いていますが、あなたの恵みによって守られて過ごすことができています。それは、私たちの行いによるのではなく、あなたの一方的な愛の賜物と感謝します。どうか、あなたの恵みと愛に応えて、あなたの御業のために労する者にならせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

7月24日木曜日
 主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください。 わたしの涙に沈黙していないでください。 わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人。 あなたの目をわたしからそらせ 立ち直らせてください わたしが去り、失われる前に。
   詩編 39:13-14

  人生の空しさ:
詩篇39篇は、人間の人生の空しさや、はかなさを強調しています。これは、現代社会においても、多くの人が共感できるテーマです。
  神への信頼:
詩篇39篇は、人生の困難に直面したときに、神への信頼を失わないことの大切さを教えています。
  祈りの重要性:
詩篇39篇は、祈りが困難な状況を乗り越えるための力となることを示唆しています。
  旅人としての意識:
詩篇39篇は、この世は仮の住まいであり、永遠の故郷を意識して生きることの重要性を教えています。

詩篇39篇は、人生の困難に直面したときに、神への信頼を深め、祈りによって困難を乗り越えるための指針となる詩篇です。

(祈り)
天の神さま、あなたのみ前では私たちの人生はつかの間に過ぎませんが、あなたとの交わりによって生きがいを見出すことができています。どうか、あなたの生命を私たちの中で満ちるものにしてください。あなたの平安の中で休息することができるように助けてください、あなたの強さの中に私の弱さを、あなたの永遠の広さの中に私の人生を、憩わせてください。


7月23日水曜日
「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。」マタイによる福音書 5:3

イエス・キリストの教えは 山上の説教としてまとめられて知います。 「心の貧しい人々、幸いである。 天国は その人たちのものである。」 キリストは霊的に富んだものとして、上から目線で「心の(霊的 )貧しい者に祝福を与えたのではありません。 自ら、心の(霊) の貧しい者として 、父なる神に霊の満たしを乞い続けたのが キリストの生涯 だったのです。 徹底的に 心の(霊)の貧しい者として生き抜かれました。そこに神の支配、神の国が現れたのです。 キリストが言われます。 心の貧しい者によって 神の国がこの地に満たされていくのだと。 神の国の祝福は彼らのものなのだと。自分の心の鍵を知る者、 自分で自分を満たすことができない者、 自分の罪を知る者 、ただ赦してください、 憐れんでください、清め てください、 癒してください、 満たしてください と乞い願うことしかできない者たちに 神の国はやってきます。 そのような者たちによって 、神の国がこの地に満たされていくのだとキリストは教えています

(祈り)
天の父なる神さま、心を貧しくして過ごせるようにしてください。どうか、すぐになくなる豊かさを楽しむのではなく、何時までも残る喜びを見出すことができるようにしてください

7月22日火曜日
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 」マタイによる福音書 7:7-8

 あなたのために備えられている 祝福があります 。あなたに出会おうとしておられる 神様がおられます。 あなたのために開かれる 天国があります。 もし 祝福もなく、 神様もおられず、天の門 も 開かれないなら 、求め、探し、 叩き続けることは虚しいことです。 しかし、 イエス様が諦めずに求め続けよう 、探し続けよう 、叩き続けようとおっしゃるのは、イエス様 ご自身が「あなたを祝福する。あなたに出会う。 あなたのために 天の門を開く」と約束してくださる まことの神様だからであります。 神様は 聖書の中で自己紹介しておられます。「わたしは、『わたしは ある』という者である」と。このお方は、「無から有を呼び出すお方」であります 。仮に、今あなたが虚しさの中にあり、 全ては無に帰すると思っていたとしても、 あなたを無から造り出した方は、 有の世界にあなたを呼び出し、 あなたを有の世界に生かすのです 。虚しさに心を任せてはなりません。諦めてはなりません。

(祈り)
天の父なる神さま、日々、祈ることができる幸いを感謝します。困ったとき、弱るとき、悩むとき、病むときだけでなく、うれしいときも悲しいときにも、祈りの門が開かれています。どうか、今日一日も、開かれている門を開けて、心の願いを述べて、主の祝福に預かることができるようにさせてください。

7月21日月曜日 
 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、  主なる神はアダムを呼ばれた。 「どこにいるのか。」 彼は答えた。 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」創世記 3:8-10
 
 聖書を読むと、人が最初に聞いた言葉は、神さまの言葉だったことがわかります。 これは、神さまが人を創造なさったのは、人と語り合うためだったということを示唆しています。 しかし 、人は神さまと語り合うことを避け、 自分自身の思いの実現のために言葉を使うようになります。 人は言葉の真の目的を見失い、言葉の尊さを知らずに生きているのです。 人を褒める言葉 とけなす言葉が同じ 口から出るのはこのためです。 確かに 、人は自らの言葉によって栄えてきました。 しかし、 また自らの言葉によって 争い、 対立し、 滅んできたのも人です。 それは、言葉を使う 第一の相手を 神さまとしたかったからです。 聖書は言います 。人が死に直面し 、滅びの門でやってきた時、神さまに向かって叫ぶと、神さまはその叫びに答え、彼を助け出されたと。( 詩篇107篇 20節) 神さまは私たちが神さまと語り合うために言葉を使うのを今か今かと待っておられるということです 。滅びの淵まで落ち込んでしまうような愚かな、 罪深い者の言葉であっても、神さまはそれを待ってくださっているのだと。 そして声をかけてくださる。 ご自分の言葉を 私たちに送り、 私たちを 癒し、 滅びの穴から助け出してくださるのです。

(祈り)
全能の父なる神さま、あなたが生きた言葉を持って、私たちを導いておられます。あなたの呼びかけに応え、交わりを持つことができますように。あなたは私を造られました。どうか、私の命をもって、み心をおこなうことを励まさせてください。主の御名によって祈ります。

7月20日日曜日
  島々よ、わたしに聞け 遠い国々よ、耳を傾けよ。 主は母の胎にあるわたしを呼び 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
イザヤ書 49:1 新共同訳

 誰でも自分が何のために生まれてきたのか、 なぜ自分が存在してるのかを考えたことがあると思います。 自分は偶然の結果 生まれてきたのか? 自分の存在価値は何か? もし本当に偶然生まれてきたのならば、 存在価値を問うことには意味がありません 。偶然 存在してるものには偶然の価値しかないからです 。しかし、神さはあなたが生まれる前から あなたを知っておられます。 命が誕生する前から あなたを価値あるものとして創造し、 人生の意味 を用意しておられるのです。 そしてあなたの名を呼ばれます。「 名を呼ぶ」とは、他のものとは区別された特別の価値あるものかけがえのないものとして認識するということを意味します。 あなたの存在理由はあなたを創造した 神さまとの関係においてのみ 明らかにされるのです 。人は愛を感じる時、 生きている喜びを感じます。 あなたを創造し、あなたを生かしておられる 神さまの愛を を知る時、あなたは生きてる意味と自分の尊さを心の底から 喜ぶことができるようになるのです 。あなたを創造 なさった神さまがあなたを呼んでおられます。

(祈り)
天の父なる神さま、私たちを創造し、私たちの名前を呼んでくださり、尊い愛をあらわしてくたさる恵みを感謝いたします。
どうか、あなたご自身のかたちに私を造ってくださったことを心に留め、私があなたにいつも真実であるように、名前を呼ばれたときに、身を隠すことなく、み前に出るようにさせてください。

7月19日土曜日
 祈りを聞いてくださる神よ すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。 罪の数々がわたしを圧倒します。 背いたわたしたちを あなたは贖ってくださいます。詩編 65:3-4

 神さまが自分の「祈り」を聞いてくださるときに、応答が、しばしば行なわれます。神さまに自分の願いを申し上げて、神さまが聞いてくださるとき、私たちはその祈りの答えに対して応答します。
 祈りが聞かれることについて、最もすばらしい祈りへの応答は罪の赦しです。私たちの物理的な必要に対して主が答えてくださるのも、すばらしいことでしょう。けれども、神さまと自分との仕切りとなっている罪が取り除かれること、その赦しから出てくる安堵感、平安、癒し、そして喜びは言葉に言い尽くせないものです。
 今日、私たち一人ひとりの祈りに耳を傾け、 手を伸ばしておられる イエス様を見つめましょう。

(祈り)
憐れみ深い天の神さま、祈ることができないとを感じる時に、御許に引き寄せて抱きしめてくださる イエス様の温かさを知ることができますように 。弱い私たちの愚かさを赦し、立ち直らせてくださるように。どうか、イエス様の愛に応えて生かされる、喜びと恵みに預かることを得させてください。

7月18日金曜日
 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。ガラテヤの信徒への手紙 6:1-2

 ここで取り扱われている問題は、私たちクリスチャンが、あやまって罪に陥ってしまった兄弟にどのように接していけばよいのか、ということです。パウロは、「柔和な心で」と言っています。罪犯して傷ついている人に対して、私たちは、言葉を選び、さらに負担をかけさせないよう気を使い、主から励ましと憐れみの言葉を話すことができるように祈り、そして一緒に祈ってあげることが必要です。
 パウロはまた、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。。」と言っています。だれかが罪を犯してしまったとき、その人を見下すのではなく、むしろ自分もまったく同じ罪を十分に犯してしまうような者だと知って、恐れおののかなければいけません。そして、ますます、自分の肉の弱さのために神からの助けと力を祈らなければいけません。
 そして「互いに重荷を担いなさい」と言っています。ここの「互いに」という言葉がとても大事です。クリスチャンは、それぞれが独立して、一匹狼のように生きたりする存在ではありません。あるいは、自分の悩み相談室のように、自分の悩みが解決されることだけを求めて教会に来るのでもありません。孤立するのでもなく、依存するのでもない、「互いに重荷を負いあう」仲が、クリスチャンの間に必要なのです。

(祈り)
天の父なる神さま、悩み多い生活の中で、苦しみを分かち合って過ごすことができる恵みを感謝いたします。どうか、悩みのときに、私たちお互いは重荷を負い合う働きに入れられるようにお願いいたします。

7月17日木曜日
 主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます。 あなたが救ってくださるなら わたしは救われます。 あなたをこそ、わたしはたたえます。 御覧ください。 彼らはわたしに言います。 「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。 それを実現させるがよい」と。 わたしは、災いが速やかに来るよう あなたに求めたことはありません。 エレミヤ書 17:14-15

 これはエレミヤの祈りです。彼はこの時ピンチの状態に置かれていました。エレミヤは「偽預言者」のレッテルを貼られていました。それは彼がエルサレムが滅びることを預言していたからです。しかしそれがいつまでたっても実現しなかったので、人々は彼のことばをあざ笑うようになっていました。 彼は言いたくで言ったわけではありません。主に従う牧者として、主が語れとおっしゃられたので語っただけなのに、結果的に民に憎まれてしまいました。それで彼はとても傷ついていたのです。だから彼は主に「癒してください、救ってください」と言ったのです。
 なぜエレミヤはそのように祈ったのでしょうか。その理由なり、目的がありました。「あなたこそ、私の賛美だからです。」とあります。エレミヤが祈ったのはどうしてですか。それは彼が癒されて楽になるためではありませんでした。彼がピンチから救われるためではありませんでした。勿論、それもあったでしょう。でもそれ以上に、あるいは最終的には、ここに「あなたこそ、私の賛美だからです」とあるように、それによって主がほめたたえられるためだったのです。

(祈り)
主なる神さま、私はときどき祈らなければならないと思うことがあります。私が一生懸命に行っていても、どうしてこんなことが起きるの?という状況に出くわすからです。神さま、そんなときに祈る願いに、あなたが応えてくださることは感謝なことです。どうか、あなたがほめたたえられるために、あなたが私たちの主であることを体感するために、これからも、どんなことをも、あなたの前に持ち出して祈り求めることがでこるよえに助けください。

7月16日水曜日
【都に上る歌。ソロモンの詩。】 主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。 主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。  詩編 127:1    

 時は、恐らくはバビロンからエルサレムに帰還して、神殿と町を再建しているユダヤ人たちのことであろうと思われます。ダビデの後継者としてソロモンは神殿を建築し、彼がその時のことを書いたのかもしれませんが、126篇には捕らわれ人が帰ってきた話があり、それで主の家と、エルサレムの町の話をしているので、帰還後のユダヤ人が歌うことができるようにしているのではないかと思われます。ですから思い出せる時代は、エズラ記とネヘミヤ記です。エズラ記において神殿を再建し、ネヘミヤ記においてネヘミヤが総督として指揮を取って、城壁を再建させました。帰還民は人数が少なく、エルサレムの城壁の中に住む者たちはとても少なく、家屋もまばらでした(ネヘミヤ7:4)。周囲の敵に囲まれていたので、それぞれの家から見張りを出して、またそれぞれの見張り所にも誰かを置かなければいけませんでした(3節)。 そこで次のことを覚えているのが必要でした。「どんなに人が努力しても、主の祝福に付け加えることができないのだ。」ということです。これは都上りの詩篇の共通したテーマです。「私の助けは、天地を造られた主から来る。」とありました。自分で自分を助けることはできず、主が助けてくださいます。「私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。(123:2)」とありました。主が憐れまれるとお決めにならなければ、憐れみを受けることはありません。それを分かっているので、一心に主を見つめているのです。そして先になりますが130篇4節に、「あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます。」とあります。自分で何かをしたから赦されるのではなく、主が専ら憐れむから、罪赦されるのです。ですから、主が私のためにしてくださることを、熱心に待ち望むのです。そこで、主が自分に働きかけてくださるのです。パウロが言いました。「ローマ 9:16  従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 」 しかし私たちは、自分の働きで主のなされることを成し遂げようとしてしまいます。主がなされることを待つことなくして、自分たちで主ご自身の何かを作ろうとします。そして何かができるでしょう。しかし、それは主のものではないので虚しいのです。主がしてくださるからこそ、そこに命があります。そこに神の恵みと憐れみが満ちています。

(祈り)
私たちの救いの神さま、 あなたのお守りのすべて、 あなたの恵みのすべて、 あなたの贖いのすべての故に、私たちは今日もあなたを 賛美 いたします。 どうか、あなたのお守りの中 、この暑い時を健やかに過ごせるように助けてください。主の御名によって祈ります。
月15日火曜日
 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。  しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。ヨハネによる福音書 4:22-23

 真の礼拝者は、霊とまことによって礼拝する、つまり、御霊によって新たに生まれなければいけない、ということをイエスはここで話されています。イエスは、サマリヤ人のこの女に対しても、同じメッセージを持っておられるのです。3章に出てくるニコデモと、この女は実に対照的な人物です。ニコデモはユダヤ人であり、女はサマリヤ人です。ニコデモはサンヘドリンの議員であり社会的な地位が高いのに対し、女は社会の除け者です。ニコデモはパリサイ人であり、道徳的に高い基準を持っていました。このサマリヤ人は男を追っかけ回している不道徳な女です。しかし、イエスは、このような背景の異なる二人に対して、同じ一つのメッセージを持っておられました。人は御霊によって新たに生まれなければならない。そして、新たに生まれるためには、イエスを神の子キリストとして信じなければならないということです。聖書は、いかなる国の人でも、どのような宗教を持っていても、男も女も、不道徳であろうが道徳的であろうが、みな神を必要としており、イエスを信じる必要を説いているのです。

(祈り)
恵み深い天の神さま、御子イエスは救いを必要とする私たちに近づいて来られます。主イエスは、私たちの迷い、さすらい、移ろいやすい心の底にある渇きを知って、生まれ変わるよう導いてくださいます。どうか、主の求めに応えて、生まれ変わって、霊であるあなたにふさわしく、霊とまことをもって礼拝する者としてください。


7月14日月曜日
  あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
コリントの信徒への手紙一 10:13

 パウロはここで三つのことを教えています。一つは、自分が受ける試練や誘惑は、自分だけのものではない、だれでも受けているものだ、ということです。私たちは試練を受けると、とかくこれは自分だけに起こっている災難だ、だれも分かってくれない、と思ってしまいます。けれども、神は、「正しく見なさい。他にもたくさん、あなたのようなところを通っている人はたくさんいるのだよ。」と教えてくださいます。二つ目に、神は、耐えることのできない試練を与えることはない、ということです。私たちは、これは耐えられない、と思ってしまいます。けれども、それは間違いです。神は、私たちが耐えられない試練を与えられません。そして、三つ目に耐えることができるように脱出の道を備えていてくださいます。この正しい見方、また試練にどのように耐えるかの方法を、私たちも知れば、私たちが罪を犯して倒れてしまうことはありません。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたが私たちに試練を与えられることを体験してきました。そして、このみ言葉が真実であることを学んでいます。神さま、厳しい試練の中で、あなたが真実にいますことに気づかせてください。そして混乱の嵐の中で、絶望することなく乗り切ることができるようにお導きください。私が呼び求めるとき、どうか、逃れる道を開いてください。主の御名前によって祈ります。

7月13日日曜日
  隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。  隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。申命記 23:25-26

 聖書は貧しい人たち、 飢えた人たちが畑に入って飢えを満たせるようにせよと命じています。それを行うことができるためには、豊かさが必要です 。ぶどう畑や麦畑に溢れるような収穫を満たされるのは誰でしょうか。 誰が 太陽の光を注ぎ、 雨を降らせるのでしょうか。 自分の畑の収穫を持って、貧しい 人の上を満たすように と命じられる神様は、私たちの畑に 豊かな実りをもたらしてくださるお方です。 溢れる神様の恵み 、私たちと働きの実に表される神様の祝福 。神様は弱った方々や困窮の中にある方々を支える分も含めて、私たちにそれを与えてくださっているのです。 自分の働きの実は、自分の独占物ではなく、神様から管理を委ねられているものです。

(祈り)
聖なる造り主の神さま、私たちを地の作物によってお守りくださることを感謝して讃えます。どうか、この暑さのなかにあっても、収穫物を豊かに実らせてください。そうして得られる収穫物を、正しく用いることができるようにしてください。また、私たちは 互いに愛を 持って、支え合うことはできるようにならせてください。尊い主のお名前によってお願いします。

7月12日土曜日
 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人も(ザアカイ)アブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ルカによる福音書 19:9-10

 ザアカイは救われました。つまり、神の国に入る者とされたのです。アブラハムの子どもなのに、神の国を相続できない失われた者が、見つけ出されました。面白いことに、ザアカイは、金持ちの役人ができなかったことを行なっています。すなわち、財産を貧しい人に施し、だまし取った物を4倍にして返そうとしています。イエスは、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがむずかしい。」と言われましたが、ザアカイは針の穴を通ってしまったのです!なぜなら、イエスがおっしゃったように、人にはできないが、神にはできることだからです。ザアカイは、生ける神に出会い、神によって財産を捨てる力が与えられたのです。 ですから、ザアカイが救われたのは、彼が行なったことではなく、神のみわざでした。ザアカイが、子どものようにイエスを求めたところに、それが証明されています。好奇心という非常にささいなことから、神の国に入るという非常に大きな事へと導かれたのです。「先生。永遠のいのちをもらうには、どうすればよいですか。」と、自分のことを重大に考えてイエスのみもとに来た、役人とは対照的です。私たちは、日々の生活のなかで、ザアカイになっているか役人になっているか考えなければいけません。

(祈り)
天の父なる神さま、厳しい暑さのなかを、あなたに守られて過ごせることを感謝します。どうか、神さまがお遣わしになられたキリストを通して、神の国の御業を見ることができますように。また、神の子の御業のために仕える者にならせてください。どうか、生ける神に出会い、神の国に向かって歩めるようにならせてください。

7月11日金曜日
  自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。 ヨハネによる福音書 7:18

 名代という言葉があります 。自分よりも上位の人の代理を務めることです。 しかし、これは本人に代わって 意見を述べるだけではなく、 本人がそこにいるのと同じ権威と職能を持つことを意味します。  名代は自分を遣わしたものの意思が行われるよう、 その名誉を汚されないよう自分の最善を尽くします。 また 名代は遣わした者の権威を帯びているがゆえに、その行為の中に自分の思いが入り込まないように細心の注意が払わねばなりません。 キリストの権威は、 父なる神様の名代 として生き抜く 権威でありました。キリストは私たちも同じ権威の中に生きる者であるように招いてくださっています。 キリストは「私の名によって 祈れ」とお命じになりました。キリストの名による祈りとはキリストの名代としての祈りを意味します。「 私の名代として 祈れ」と命じておられるのです。「 それはかなえられる」と。キリストの名代、キリストの名誉が汚されない生き方。とても自分の力でできることではありません。 しかし 、キリストの名代として祈るものでありたいという願いを持つことは大切です 。キリストは その願いを受け止めてくださっています。 思い切って 祈ったら良い。失敗を全て ご承知の上で、「私の名代 であれ」と招いてくださっているのですから。

(祈り)
天の父なる神さま、「キリストのお名前によって」祈ることの意味をしっかりと心にとめることができますように。ともすれば、キリストのお名前を使って自分の願いばかりを祈っている私たちの愚かさに気づかせてください。どうか、私たちの思いがキリストの思いと同じことになるよう、キリストの言葉と合わさせてください。御心を行うことができますように助けてください。

7月10日木曜日
 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。 朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる。イザヤ書 50:4

人は言葉によって生き、 言葉によって倒れる。イエス・キリストは「人は、パンのみによって生くるにあらず、神の口より出る全ての言葉によって生く」という聖書の言葉によって 悪魔の試みを退けられた。神は、私たち人間を、神の言葉を聞くもの、神の言葉によって生きるものとして創造された。神の言葉を聞くとき、人は生き、神の言葉に耳を閉ざすとき、人は命を失う。
 いのちと希望を失った私たちに、イエス・キリストが語りかけてくださる。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」  ヨハネの福音書5章25節と。聖書の中に神の言葉を聞くとき、私たちの 霊が神の霊によって 息づき始める。罪に死んだ霊がよみがえる。 神の言葉によって生きる者、 神の言葉によって人を支える者、人を生かす者、 神様はそのような人々によってこの世が満ちることを願っておられる 。

(祈り)
愛する 天の父なる神さま、 朝ごとに あなたの御言葉を聞くことができますことを感謝します。 開かれる御言葉を 祝し、 その言葉に耳を傾けることができますように。その言葉によって、私たちの魂を豊かに 養ってください。どうか、語ってくださった言葉を人に伝える者になれるように、今日も励ましてください。

7月9日水曜日
  あなたの心をわたしにゆだねよ。 喜んでわたしの道に目を向けよ。箴言 23:26

私たちが持っているもので最も尊いものは心です。 私たちは心で喜びを感じ 、愛を受け取ります 。また、愛の関係は心を通して結ばれます。 一方、 心は とても繊細で傷つきやすく 、一度傷ついた心は、癒されるのに長い年月を要します。 尊いから時間がかかるのです。 私たちの心は、今 、喜びと愛を感じているかもしれません。 あるいは、傷つけられたり、自分を受け入れられず苦しんでるかもしれません 。私たちが自分の心を持て余すのは、自分の心の扱い方を知らないからです。 この一つしかない 尊い 心は、自分のものではないのです。 私たちの体を造られたお方は、私たちの心をも造られた方。 そして、この方は私たちの心の尊さを、私たち以上に知っておられるに違いありません。一つ しかない 尊い心 、この一つしかないものをわたしに与えよ、 と神様はおっしゃっています。 喜びと愛に満ちている心だけを差し出すのではありません。 苦しく悲しい心も、汚れた卑しい心も、 わたしに渡しなさい と神様はおっしゃっているのです。 あなたの目を あなたの心から離し、わたし の道に目を注げと。神様のものは、神様がお守りになるからです。

(祈り)
全能の神さま、 全ての人の心を見られ、 全ての人の欲望を知っておられ 、秘密を隠しておくこと できない 神さま、私たちが 完全にあなたを愛し、 大きく あなたの 御名を崇められるように、あなたの聖霊の霊感によって、私たちの思いを清めてください。神さま、どうか、自分のものだと思っていたこの心を、あなたににお返しすることができますように、 主の御名によって お願いいたします。

7月8日火曜日 
 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 コリントの信徒への手紙二 5:20

パウロが伝えているメッセージは、神と私たちがキリストによって仲直りするところのメッセージです。その内容を次に伝えています。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
 私たちは、罪を犯すことによって神に対して敵対的関係にいました。神は私たちの敵であり、神はご自分の正義によって、この敵を滅ぼすしかありません。しかし、あわれみ深い神は、御子をこの世に遣わし、この御子に、罪の責めを負わせました。ちょうど、私たちが犯した罰のおしおきを、自分自身に受けさせるようなものです。三位一体の神は、御子のからだにおいて罪を処罰してくださったので、今や、私たちには、「仲直りをしましょう。」というメッセージだけが残されているのです。それをパウロたちが、人々に伝えています。

(祈り)
めぐみに満ちた天の神さま、 私を、この日あなたの 託されたキリストの使者の務めを行うことができるように導いてください 。私が素直な思いを持つことができますように、 私が強い意志を持つことができますように 。キリストをお遣わしになった方の御心を行うことができますように。どうか、 あなたの大いなる 憐れみによって、私たち一人ひとりに襲いかかるこころみから救い 、永遠の命を与えてください。聖なる十字架の力によってお願いします。

7月7日月曜日
【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】 主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。詩編 139:1-3

 ある放送の番組でアメリカでは AI 人工知能が心臓移植を受ける人の優先順位を決定していると報じていました 。担当医も、 AI はブラックボックスで、なぜ AI がそのように判断したかは分からないと言いつつ、 移植を待つ男性に優先順位の低いことを告げていました。 私たちの存在そのものを作用する重大な判断を AI に任せようとする時代がすでにやって来ています 。しかしその AI は 、その理由も目的も知らないのです。単に大量データの表面的な解釈によって、 可能性を導き出すだけだからです。 その男性は言いました 、「私は AI が言うことを全面的に信頼はしない。 私は神に信頼する。神が答えを知ってるからだ。」 私たちは何を信じるのか、 誰を信じるのか、 理由も告げずに人を選別するブラックブラックボックスか。 それとも私たち一人ひとりを無から作り出し 、私たち一人ひとりの存在の理由とその目的を知っておられるお方か。聖書 は言います。このお方だけが、私たち一人一人の答えだと。このお方は、私たち一人一人、 私 、そしてあなたの全てを知ってくださっていると 。

(祈り)
天にいます 私たちの造り主作りなる神さま、あなたが私の言葉の全てを聞かれてることを感謝します 。あなたが私の行動のすべてを見られておられることを感謝します。 あなたが私と心の底の考え さえも知っておられることを感謝いたします。 私たちがあなたを愛し あなたと共に歩くならば、 この世界の中では、私たちを 神から離すことができるものが何もないことを感謝します。 どうか、私たちが神様から隠れる場所がどこにもないことを覚え、どこにでもおられる神様を頼って 見上げることができるように導いてください。

7月6日日曜日
 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。 ヨハネの手紙二 1:6

キリスト教を「キリスト 道」 と呼ぶ人たちがいます。キリストを信じるとは、キリストが指し示す道を歩むことだからです。 聖書の中に「この道」と書かれているところもあります。 私たちが歩むべき道 とは何でしょうか 。聖書は言います 。それは「 キリストの愛のうちである」と。「キリストの愛」のうちを歩むのであって、私の愛のうちではない 。私の親切でもない。 私の思いを伝えることでも、自分の愛の思いを貫くことでもない。自分ではない。 私たちが 「私」「 自分」と言ってるところ、 思ってるところを 「キリスト」で置き換えてみる 。そうすると、自分が何をしなければならないか、 何をしてはいけないかが分かってくる 。そして 、それ以上に、 キリストがこんな自分をどれほど愛してくださってるのか 、赦してくださってるのかが分かってくる 。キリストが、溢れるように愛を注ぎ 、満たしてくださるからです。

(祈り)
天の父なる神さま、あなたの命令に従って「愛」のうちを歩むことができますように。隣人、友人を尊んで生きる者へと変えられますように。私のうちから、キリストの愛が溢れ出てくるように造り変えてください。主の御名によってお願いします。

7月5日土曜日
 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。マタイによる福音書 19:14-15

 子供は自分では食べ物を手に入れることはできません。 自分では自分の体の汚れを洗うこともできません 。世話をしてもらわなければ生きていくことができません 。働くことができず、自分の必要を自分で満たすことができないのが子供たち なのです 。このような小さな子供たちは 価値のないものとみなされていました 。しかし イエス様はこのような子供たちを深く愛されました 。そして子供たちのように、自分で自分の必要を生み出すことができない 引っ込められた者たち、 貧しい者たち 、病んだ者たちを愛し抜かれたのです。 自分の心を自分で変えられない私たち、 心の貧しい私たち をイエス様は招いてくださっています。 私のそばへ来なさい 。あなたは私とそばにいなさいと。 イエス様が御手を置いて 祝福してくださる。そして ご自分の命を注いでくださるのです。

(祈り)
天の父なる神さま、私たちが神の子であると自覚できますように。イエス様のそばに近づくことができますように。祝福されますように。神の子として、あなたを畏れ敬い、御名を讃えることを、今日も行わせてください。

入れることはできません。 自分では自分の体の汚れを洗うこともできません 。世話をしてもらわなければ生きていくことができません 。働くことができず、自分の必要を自分で満たすことができないのが子供たち なのです 。このような小さな子供たちは 価値のないものとみなされていました 。しかし イエス様はこのような子供たちを深く愛されました 。そして子供たちのように、自分で自分の必要を生み出すことができない 引っ込められた者たち、 貧しい者たち 、病んだ者たちを愛し抜かれたのです。 自分の心を自分で変えられない私たち、 心の貧しい私たち をイエス様は招いてくださっています。 私のそばへ来なさい 。あ
なたは私とそばにいなさいと。 イエス様が御手を置いて 祝福してくださる。そして ご自分の命を注いでくださるのです。

(祈り)
天の父なる神さま、私たちが神の子であると自覚できますように。イエス様のそばに近づくことができますように。祝福されますように。神の子として、あなたを畏れ敬い、御名を讃えることを、今日も行わせてください。

7月4日金曜日
 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 ヨハネによる福音書 8:31-32

 キリストが私たちに与えてくださる 自由 、それは、自分自身からの解放です 。私たちは、自分が作り上神の子げてきた自分という枠に基づき 生きていますが、 その枠は自分自身を縛ることにもなります 。希望を持ちたいと思っても希望を持つことができない 。喜んで生きていきたいのに喜ぶことができない。清く生きたいのに、ぬぬ汚から離れることができない。自分の心は自分のものだ 、自分で自由にできるはずだと思っても、 私たちは自分の心を自分で持て余してしまっているのではないでしょうか。そんな時 、聖書の言葉に耳を傾けてみてはどうでしょう。 聖書の言葉が この心に留まる時 、分裂した心が一つにされていく。不自由だった 心が自由
にされ、自分自身から解放されていくのです。 もう自分の罪深い性質を嘆くこともなく、 それに囚われることもなく、安心してキリストを見上げることができる 。その言葉に耳を固めることはできる。 やがて 私たちは キリストの姿を映すものと変えられていくでしょう。 主の御霊のあるところに自由があるからです。

(祈り)
天の神さま、あなたの造られたところで、造られた物が、声を大にして言います「私たちはあなたの物です」と。どうか、あなたの真理が私たちの中で自由に働き、贖いの惠みをたたえることができるようにしてください。

7月3日木曜日
 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。ローマの信徒への手紙 5:3-5

パウロは多くの苦難を経験した人です 。同胞のユダヤ人から命を狙われ ,逃亡を続けながら 伝道 しなければならない時がありました 。また 健康上の問題を抱えていました 。 決して楽ではない 生涯でした。 しかし パウロはその苦しみは 希望につながる 苦しみだと告白しました 。なぜならイエス・キリストが この苦しみの中に入ってきてくださり、 苦しみを共にしてくださるからです。 私たちにもキリストの忍耐が与えられ 、キリストの人格が形作られていきます。 そしてキリストの中に満ちていた希望が私たちの中にも満ち溢れてきます。キリストがよみがえられたように私たちもよみがえリます。苦難は人を卑しめることはできません。 なぜなら患難の中で私たちはこの内面に働く キリストの力を経験することができるからです。 苦難に陥った時 、希望を失うこともあるでしょう 。今まで見えていたと思っていたキリストが見えなくなることもあるかもしれません。 しかし キリストは私たちの中で必ず復活 なさいます。 死んだものを生かす力が私たちの中で生き始めるのです。

(祈り)
主なる神さま、私たちは病の苦しみ、暑さの苦しみ、人間関係の苦しみ、信仰を持ち続ける苦しみなどを負いながら歩んでいます。私たちの生きざまが失望に終わることがないという希望を持っているからです。神さま、どうか、私たちに、あなたの恵みによって、忍耐を学ばせ、キリストにある安らぎを楽しめるようにお守りください。


7月2日水曜日
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 ] やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書 12:16-21

 このたとえは、貪欲がうまく表現されています。英語の聖書を見ると面白いのですが、「私はどうしよう。私はこうしよう。私は、あの倉を取りこわして、私は私の穀物や私の財産をみなそこにしまっておこう。」と、「私が」とか「私の」という言葉がくり返されています。つまり、貪欲になっているとき、自分の意思が優先して、神のことが入ってくる余地がなくなっているのです。また、「食べたり飲んだりして楽しめ」という箇所には、接続詞が入っていません。英語ですとa n dがないのです。ですから、「食べたり,飲んだりして、楽しめ」と言っているわけで、一歩下がって、神がどう考えておられるか何も気にしていないのです。本当なら、「神さま、これをどうすればいいですか。食べてもいいですか。どうでしょう?」というような心の状態でなければいけないのです。
   神の前に富むというのは、神を恐れることと同じであります。この地上で行なっていることを、天において申し開きをすることです。けれども、神を恐れるのは、悪から離れるという消極的な行為であるのに対し、神の前に富むとは、善を行なうという積極的な行為です。イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ7:12)」と言われましたが、神の前でした良い行ないは、一つももれることなく、天において高く評価されます。

(祈り)
天の父なる神さま、私たちをあなたに対して 富む者にしてください 。自分のために蓄えた宝を大切にしたり、 持ってるものの豊かさに安住したり 、自分の貧しさを嘆いている生活から、私たちに本当に必要だったものを全て備えてくださる あなたに信頼して歩む者にしてください。


7月1日火曜日
 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 コリントの信徒への手紙二 5:17

イエス・キリストは人間の基準、 人間の評価を超えさせる 創造の御霊です。 私たちはこれまで 人が作った記事によって評価され、ある時は 高慢になり、またある時は 卑屈になるということを繰り返してきました 。そして自分の価値が 人の評価によって決まるという思いにとらわれてしまっているのです。 しかしイエス・キリストは人の基準と評価を超える新たな価値を 私たちの中に作るお方です。 十字架刑 という究極の苦しみと恥辱を失って復活をなさったイエス様はどのような状況の中で苦しむ人たちにも復活の命を注ぎ、 新たなものとして立ち上がらせてくださっています。 たとえ これまでどのように いやしめられていたとしても、 あなたを「私の子」と呼んでくださるお方がいるのです。 あなたに神の子の栄光と尊厳を着せてくださるお方がいるのです。

(祈り)
天にいます神さま、今日もあなたの深い 慈しみに守られ、 一日の勤めを始めさせてください。 私が今日、言葉の上だけでなく、行いにおいても 神の子の尊厳を保つことができるようにしてください。 自分を憐れんだり、 私欲を貪ったりすることがありませんように。キリストと深く結ばれて行動することができるようにお導きください。







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